本にまつわる話

ヒゲなし猫の生活

本を捨てられない理由

私には変な癖があって、一度読んだ本の一節をふと思い出すと「確かあの本の一文だったはず。」とその本を再読し、目当ての文章を見つけると「あぁ、やっぱりあった!」と思い満足するという、我ながらアホなことをしている。
記憶の断片が頭をよぎった時、その本が手元にないと落ち着かない。
自分の目で確かめてみないことには、気が済まないのだ。
他の人からはどうでもいいことが、私には大事だったりする。
映画の話の時も書いたが、昔読んだ本でも同じ様に一文だけとか、設定だけとか断片的にしか覚えていない本がある。

おじいさんとアライグマ

小学生の頃、学級文庫にあった本で、頑固な石工のおじいさんがアライグマと少年に出会い、段々と優しい人になっていき、最後は死んでしまったアライグマのためにお墓を作るというお話だったと思う。タイトルも作者名も何も覚えていないけれど、ずっと心に残っている。

プルーストのマドレーヌ

マルセル・プルーストは紅茶に浸った一片のマドレーヌの味覚から、不意に蘇った幼少期の記憶を手繰り寄せ『失われた時を求めて』を半生かけて執筆した。
人間の記憶は味覚と結び付いている事が多いらしい。
そういえば昔、HM/HR系の来日コンサートがあるとよく利用していた渋谷のホテルの近くにあったam/pmで、毎回ツナマヨおにぎりを買って食べていたが、とても美味しかった記憶がある。
考えてみればツナマヨなんて、どこのコンビニでもそんなに違いがあるわけないが、おそらくライブの高揚感と楽しかった気分が味覚と繋がったのだろう。
プルーストのマドレーヌほど優雅な思い出ではないが、あんなに美味しいツナマヨをもう何十年も食べていない。

閉ざされた部室

もう一つ本の思い出がある。高校の時、私は地学同好会に入っていて、その部室は地学準備室という普段使われる事のない、倉庫のような小さな部屋で、私たち部員、いや会員には隠れ家のような居心地の良い落ち着ける場所だった。
一階校舎の奥まったところにあるドアを開けると、右手に岩石を削ってプレパラートを作る研磨機の小部屋があって、中央に理科室用の大きな机、左手に事務用書類棚があり、机の後ろには壊れた百葉箱がデーンと置かれ(中にはコーヒー、紅茶、全員分のカップなどが入っていた。)
放課後まっすぐに部室へ行き、次の研究発表のテーマに頭を悩ませたり、昨日のTVの話をしたり、
ラジカセから流れる音楽を聴きながら各々本を読んだり、コーヒーを飲んだり岩石プレパラート
を作ったり、近くの食堂から出前を取ったラーメンを食べたりしていた。
その部室にあった書類棚には、顧問の太田先生の蔵書がぎっしり入っていて、私はその中の『99の謎シリーズ』というムック本が好きだった。確か、全巻揃っていたと思う。
少人数だったが、その分先輩達とは姉妹のように(部員は女子ばかりだったので)仲の良い部活だった。
後年、文部省の方針で教科に地学が無くなり、顧問の移動も重なり、地学同好会は私達の代で終わってしまった。部室はそのまま閉じられ、二度と入る事なく私達は卒業した。
それから何年も経って、私はDeacon BlueというイギリスのバンドのCDを聴いていて、胸を締め付けられる様な思いをした。
アルバムの中の曲の一節が突然、私の記憶を呼び覚ましたのだ。
(あの締め切られた家へと私を連れ戻しておくれ)という歌詞を聴いた途端、私の心はあの部室へ
飛んで行った。あの本がどうなったのか、部室がその後どうなったのか私は知らない。
だが、私の想いはそのまま閉じ込められて残っている。

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